人から、よく優しいね と言われることがある。
そのたびに、私は自分が本当は優しくないのだと強く感じている。
私は私よりもたくさん優しい人を知っていて、全くそう思うことができないのだ。
未だに優しさとはなにか、よくわかっていない。
私は昔から、とても気にしいで、変わってるといわれることもたくさんあるので、きっと人よりも、悲しんだ数がちょっとだけ多いような、そんな自信はある。
もちろん悲しんだ回数と、悲しさの深さや痛みが違うことも、人によって悲しさの種類がたくさんあることも、そのかたちや色、感じ方が違うということもなんとなく、わかる。
だけど、それ以上にわかるのは、悲しみは、たとえ丸ごと共感することができなくても、それでも、ちゃんと手を差し伸べることできっと癒えるということだ。優しさは何か分からなくても、そうすることの大切さを知っている。
私はそれを優しさと呼びたい。
私にとって、優しさとは辛さや悲しみの存在があるからこそ成り立つものなのかもしれない。
私が優しいと考えている行為は、もしかすると全然優しさとは言えないのかもしれない。
きっと、世の中にはパズルを解くように、方程式をつくって慰めの正解を導き出す人はたくさん存在しているのだろう。
でも私はいつも決まって、悲しんでる人を前にどんな言葉を投げかければいいのか、分からなくなる。優しさが上手くないから、私にとっての優しさはいつも、言葉にならない、いびつなかたちになる。
好きなお菓子を買ってくることや、お腹をくすぐってみること、特に意味のないことを繰り広げてみることなど。それらの行為を重ねて自分なりに導き出しているから、それは優しさとは言えないのかもしれない。
けれど、ひとつだけ自信を持っていえるのは、その人を見放さないという強さがあるということ。
たとえかたちが違ったとしても、その思いや本質は同じだから、必ず分かり合えると、分からないなりに、優しくなりたいと日々思っている。